石川賢:永遠の先へ

神州纐纈城(上) (講談社漫画文庫)魔界転生 (講談社漫画文庫)ゲッターロボ全書
石川賢』という才能がこの地上から私達の眼に見えない場所へと旅立っていった。
一体この才能が、日本のサブカルチャーに与えてしまった影響をどのような方法で測定すれば良いのだろうか? そしてまたそれが去って行ったということは、どれほどの損失なのだろうか。私にはわからない。
思うに石川賢という才能は『過剰な』才能である。才能が過剰とは、石川賢の描くモノは常に過剰であったということなのだ。ゲッターロボ虚無戦記、伝奇漫画…機械も人も過剰な進化を遂げ、過剰な暴力に溢れ、過剰な狂気に飲み込まれる。そしてその『過剰な物語』は延々と語られ続けるだろう。石川賢の作品が打ち切りのような形で終るというのは、限られた紙面の中にその物語を詰め込む事が出来ないからなのだろう。石川賢は常に過剰だった。
石川賢の漫画の中にあるのは、「欠損とその回復」という物語ではない。常に濁流の如きストーリーの中で、登場人物たちは己の内に秘めた巨大なエネルギーをぶつけ合う。それはあたかも角張った巨石が、川床を転がるようにして己を磨いていくように。それは、過剰なエネルギーをいかに発散させ昇華しようかと足掻く人間たちの物語なのだ。そして世界の果てまでも駆け抜けてゆくようなエネルギーを発して彼らは輝いている。
私達は時に忘れてしまう。月のように「欠けたもの」を補おうとする物語は確かに美しい。しかし、一方で人間は常に欠けているばかりではない。常に過剰なものを己の内側に持っているものではないだろうか。太陽のように「過剰なもの」を発散する物語、それを最も端的な形で表現しえた才能が石川賢なのだ。
彼の描き出す過剰なものが渦巻く世界。人間の形もあやふやになる狂気の世界と宇宙的な物語の中にあるからこそ、それが過剰なまでに描き出されるからこそ『人間も捨てたもんじゃねぇぜ!』という在り来たりなはずのセリフは、逆に強烈なエネルギーを持って輝くのだ。これはきっと過剰なヒューマニズムなのだ。進歩主義や理想主義を超越した石川賢にしか描くことのできなかった『宇宙最強の人間主義』なのだ。永井豪の生み出した『デビルマン』という問への答はここにある。つねに問を凌駕する答が。
私達はそんなエネルギーを知ることが出来た。そしてきっと石川賢は去ってなどいないのだ。彼の作品が常に『先』へと無限の未来へと伸びていったように『石川賢』の残したモノはまだ先に行くだろう。世界に果てがあるとしてその果てまでも、そしてその果てを突き抜けて。そしてきっと私達は置いていかれるばかりではいてはならないのだ。残された道筋を辿って、先へと進むエネルギーがあることを教えてもらったのだから。

ありがとう石川賢先生。