謎の剣豪&柳生関係者:結城忠正

ユウキノシンサイハ、シュリ・シュリケントツカフ也
謎のて、と思われた方はかくあらん。世に柳生関係者は数多い。島左近松永久秀など比較的マイナーだが濃い武将などともつながっていたりする。さて、みなさんそんな柳生関係者の中で結城忠正(ゆうきただまさ)という男をご存じだろうか?
かいつまんでいうと↓こういう男。

結城忠正
生没年不詳。戦国・安土桃山時代五畿内の初期キリシタン。当代の大学者にしてキリスト教布教に尽力。山城守。号は進斎。松永久秀の臣、命によりキリスト教の是非を審査のため清原枝賢とともに奈良で日本人ロレンソ修道士から教理を聴いて感銘を受けビレラ神父から受洗。霊名はエンリケ(アンリケ)。フロイスによると、学問・降霊術で著名、剣術家にして文章力にすぐれ天文学に通暁。1569年(永禄12)6月以降消息不明。(五野井隆史)*1
国史大辞典より

太文字は私がふったものです。ご紹介する柳生関係者は、ドマイナーなこんな人物。だが、意外!一キリシタン武将で終わらぬネタがこの男には存在している!

既述のように、当時天下の最高統治権を掌握し、専制的に支配していたのは松永霜台(久秀)であった。すなわち、彼はその点偉大にして希有の天稟の持ち主であった。彼は完全に自らに服従せしめていた大和の国の、奈良の市に近い多聞山という立派な一城に住んでいた。そして五畿内においては、彼が命じたこと以外はなにもなされぬ有様であったから、位階や門閥においては彼を凌駕する多くの高貴な人たちが彼に奉仕していた。その人たちの中に結城山城殿という一老人もいた。彼は学問および降霊術において著名であり、偉大な剣術家で、書状をしたためたり添削することにかけて有能であり、日本の学問の程度に応じた天文学にはなはだ通暁していた。彼には、かくも多くの希有の才能が集まっていたので、彼は天下の最も高貴な人々から非常に敬われ、松永霜台は彼に幾多の好意を示していた。
フロイス日本史より*2

結城山城殿つまり忠正について、ルイス・フロイスの日本史を読んでいたときに、上記のような記述に行き当たりました。国史大辞典での説明も多くはこの記述に依っているものと思われます。偉大な剣術家で降霊術において著名とか、どこの荒山メソッド*3ってなもんです……。ともかく文武両道の超文化人だったこの人物。*4は、松永久秀に依頼されてキリスト教徒と問答し、それがきっかけでキリシタンに改宗してしまうという数奇な運命をたどります。
当時京都で最も知られた学者武士であった彼の改宗が契機となり一族を始め有名な高山右近や三箇頼照をはじめとして多くの畿内の上流階級が改宗し、河内キリシタンと呼ばれる集団が現れる契機となりました。*5
しかし私の伝奇アンテナにはまた違った方面でピッピッとくるものがあったのです*6
なに偉大な剣術家とな!?と。
それはこの男を、柳生関連の文献で二度ほど目にしたことがあったからです。一度目は柳生厳長氏の『正伝新陰流』における柳生連也が父兵庫助の口伝を書き残した文書『柳生連也自筆相伝書』および長厳さんによるその解説の中です。

 必 勝
本云。是ハ左太刀也。上段右ノ肩ニカマヘ、左ノ足ヲサキヘナス。敵、懸(ケン)ニシテ身ニアラソフト時ハ、其ママ勝。又、調子ヲヌキ越テアラソフ時ハ、敵ノ右ノウラヨリ勝也。
厳云。打太刀カネノツモリノ構也、ユウキノシンサイハ、シュリ・シュリケントツカフ也。直(ジキ)ニ、打ツケ々勝也。伊勢守流ニハ、ヌケテ勝也。
『正傳新陰流』柳生連也自筆相伝書より*7

本云というのは、新陰流祖上泉伊勢守や石舟斎はこう言ったそうだ、厳云は柳生利厳(兵庫助)はこう言ったよ、という意味だそうです。著者は、この必勝を含む『九箇の太刀』は流祖上泉伊勢守が関東の諸流派の秘伝から、特に優れた九つの太刀使いを選んで柳生宗厳に伝えたもので、新陰流の他流派には伝わっていない、と書いてるんですね。そして上記の厳云の部分の「ユウキノシンサイ」について触れています。

他のことは簡略しても、「ユウキノシンサイ」にだけは、一言したいと思う。結城ノシンサイその人は、上泉大宗の道交として、この「必勝」の太刀を最も得意とし、結城流の使い方そのものを相伝していて、私も幼・少年時代からその太刀を習い、この口伝を耳にしているが、流史では、結城シン斎の小伝について、それ以上を明らかにしていなかった。
『正傳新陰流』より*8

さあ出てきました謎の剣豪ユウキノシンサイ
そして二度目は『史料 柳生新陰流』の柳生文書中の「八月十一日の織田信長から柳生宗厳宛ての書状」において。

雖未申通令啓候。仍松少と連々申談事候。今度公儀江御断之段達而令言上半候。定不可有別儀候。雖不及申、此時御忠節尤候。随而山美息女之事、松少江内々申事候。先三木女房衆、此刻早速被返置様御馳走専一候。通路以下御為ニ候。向後別而可申承候。相応之儀、不可有疎意候。猶結山可為演説候。恐々謹言。
   八月廿一日      信長(花押)
      柳生新左衛門尉殿 御宿所

柳生文書より*9

↑の適当な意訳『どうも始めて連絡します。当方は松永久秀となんども打ち合わせしております。今度公方様にあなたの「お断り」のお返事を言上するつもりです。さしつかえのないように願います。言うまでもないことですが、この時を逃さず奉公しておくべきかと思います。また内々に松永久秀には言ってあることですが、(人質としている)山岡美作守の娘の件に関しては、早速に付き添いの三木の女房衆を返ししますようお計らいください。今後のことは、後ほど連絡いたします。疎意のないように相応に願いします。後のことは結城山城守が説明いたします。』


国史大辞典にもあるように、結城山城守忠正の斎号は「進斎(シンサイ)」といいます。上の書状などからみても明らかに結城山城守と柳生宗厳の間に関係があったことが分かります。
つまりユウキノシンサイ=結城進斎(忠正)なのです。*10
信長は足利義昭を奉じて1568年(永禄11)の九月に上洛してるんですが、近江ルートを通って京都まで行ってるんですね。しかしこの時、近江の六角氏などと結構ギリギリまで駆け引きがあったみたいでして、大和でぶいぶいいわしてた松永久秀と通じて伊賀→大和ルートでの上洛も考えていたようです。そういう動きの中で、大和から伊賀へ通じる柳生街道を押さえていた柳生一族の所に上の書状のような連絡が来ていたのではないかと思われます。ちなみにこの時期柳生一族は松永久秀配下で筒井順慶とかと戦ってました。*11そうした情勢の中で同じく松永の勢力下で働いていた結城山城守*12は信長と通じさらに、柳生宗厳と交流があったのではないかと考えられます。また柳生氏は、松永久秀とはその最期(1577年 天正4)まで付き合いがあったようです。つまり結構長い間、結城山城守と柳生氏とはつながりがあった可能性が高いのです。
上記の正伝新陰流の引用部分『必勝』を含む『九箇の太刀』というのは1563年(永禄6)に柳生にやってきた上泉伊勢守が編みあげた刀法です。上泉伊勢守は柳生を通じて当時宣教師にも伝わるほどよく知られた剣術家であった結城忠正ことユウキノシンサイと交流があったのではないでしょうか
ちなみに柳生宗厳宛てに印可が出されるのは永禄八年ですが、同時に九箇の太刀を伝えたと考えても、永禄六〜八年の間、伊勢守は大和や京都あたりで兵法流布を行っていたようなので「左太刀の名手」結城進斎と技術交流があったとしても不自然ではないでしょう。
そして、その剣豪結城山城守(ユウキノシンサイ)について、柳生宗厳(石舟斎)が、自慢の孫の柳生兵庫助(利厳)に、「んーこの必勝って太刀はなー、結城進斎っておじいちゃんのダチがいてなーそいつの必殺技だたんだぞー」と教えたとしてもおかしくなりません。或いは、結城山城守は上泉伊勢守から新陰流を学んでいて「必勝」の太刀を得意としたのかもしれません。
ってなわけで、キリシタンとも問答できちゃう知識人で、天文学交霊術(多分仏教儀礼かなんか)も造詣が深くて、茶湯の心得も当然あって、能筆で、松永弾正のブレーンで、土豪の説得も信長から任され、しかもこのユウキノシンサイ=結城山城守忠正説が合っていれば「新陰流に影響を与えたほどの剣豪」という非常識にマルチな才能を持った人物だったんじゃないでしょうか?
なんで今まで、こんな『伝奇属性』の塊みたいなこの人物を取り上げた作品がないのが不思議です*13が、マイナーだからかですかねー。詳しく調べたわけではないですが、時代小説に登場することもかなり希なんじゃないでしょうか?*14高山右近みたいに色々逸話が残ってるわけでもないし……。禁教令とか情勢変化のおかげで子孫もぶいぶい言わせなかったし……。
なお、三好長慶の家臣であった結城左衛門尉(アンタン)(1534(天文3)〜1565(永禄8))は息子であり、彼は父親の影響で授戒後に砂の寺内(現在の大阪府四條畷市砂)に教会堂を建てました。甥の結城弥平次(ジョアン)は摂津岡山(現在の大阪府四條畷市岡山)領主で、1577年(天正4)忍ヶ岳に教会堂を建てました。本能寺の変後の一五八四年の小牧の戦いにて戦死したようです。

以上、柳生新陰流に影響を与えた(と思われる)超文化人結城忠正についてでした。

参考文献
完訳フロイス日本史〈1〉将軍義輝の最期および自由都市堺―織田信長篇(1) (中公文庫)
完訳フロイス日本史〈2〉信長とフロイス―織田信長篇(2) (中公文庫)
定本 大和柳生一族―新陰流の系譜 正伝新陰流
史料 柳生新陰流〈上巻〉 史料 柳生新陰流〈下巻〉
イエズス会宣教師が見た日本の神々 戦国 三好一族―天下に号令した戦国大名 (洋泉社MC新書)
定本 大和柳生一族―新陰流の系譜 柳生一族―新陰流の剣豪たち (別冊歴史読本 (45))

全体の参考URL
ユウキノシンサイについて ←同じ発想をした方がいました。うひょー。
天下統一期年譜 ←元になった一次史料が上げられてるのがうれしい。
三箇のキリシタン ←河内キリシタンについてここが熱い。

*1:【参考文献】
・『耶蘇会日本通信』京畿篇下(村上直次郎訳、渡辺世祐註、『異国叢書』3)
・『フロイス日本史』3−5(松田毅一・川崎桃太訳)
松田毅一『近世初期日本関係南蛮史料の研究』

*2:『完訳フロイス日本史1 将軍義輝の最期および自由都市堺』中公文庫 P151〜152

*3:友景とか友景とか友景とか

*4:他にも細川幽斎とか北畠具教とか戦国武将たちはけっこう超マルチ文化人ですけど。

*5:『戦国三好一族』今谷明 洋泉社新書 P244〜248
『完訳フロイス日本史1 将軍義輝の最期および自由都市堺』中公文庫 P151〜

*6:おお、アバルの神よ

*7:『正伝新陰流』柳生長厳 島津書房 P304〜305

*8:『正伝新陰流』柳生長厳 島津書房 P306

*9:『改訂 史料柳生新陰流』今村嘉雄 新人物往来社 下巻P289

*10:正伝新陰流の著者柳生厳長氏は、このユウキノシンサイとは、塚原卜伝の高弟だった結城政勝であろうと推察しています。結城政勝は下総結城氏の16代当主で分国法「結城氏新法度」を制定した人物です。確かに卜伝の出身は下総鹿島で、また伊勢守と鹿島の神道流との交流は十分ありましたが、大和にいた「ユウキシンサイ」ってことも考えられるんじゃないの、とも十分考えられます。結城忠正神道流系の剣士だったかもしれませんし。

*11:上記の内容の「山美の娘」云々は、反信長の立場だった山岡景隆の娘が三木氏のお嫁さんで、しかもこの時松永久秀に人質にされていたようなので、そのルートで圧力をかけていたということらしいです。多分、柳生氏は山岡氏との関係で、簡単に話に乗れないところがあったのじゃないでしょうか? 参考:柳生宗厳宛織田信長書状の年代について

*12:元々は幕府の作事奉行で、三好長慶経由で結局松永久秀についたんじゃないかとも考えられているようです。永禄十二年一月の津田宗及主催の茶会にも信長方(当時松永久秀は信長配下)の上使衆として出席しています。参考:津田宗及主催大茶会

*13:「歴史」の検証としては不十分ですが、「伝奇」的にはこれだけ条件が整っていればOK

*14:高山右近を扱ったようなものでは登場の機会があるかもしれませんが